2010年8月12日木曜日

江戸の面影・芝増上寺

しばらくブログをサボっていましたが、江戸の面影というテーマで、取材も取り混ぜてすこし記事を書きましょう。前回芝の増上寺を取り上げましたが、 今回はもう少し細かく書いてみましょう。
 増上寺は正式には三縁山広度院増上寺といいまして、浄土宗のお寺です。室町時代(明徳四年(1393年))に千代田区紀尾井町のあたりに建立されたそうです。その後、徳川家康が江戸入府後、徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受け、現在の地に移転しました。15代徳川将軍の内6人の墓所が増上寺に建立されています。(家康公と家光公は日光、慶喜公は谷中墓地、他の将軍たちはもう一つの菩提寺である寛永時に墓所があります)位置的には寛永寺(天台宗)が江戸城の鬼門を守るのに対し、増上寺は 裏鬼門を守る位置になります。家康公は当時の住職存応(ぞんのう)上人に深く帰依し、増上寺で葬儀を行うように言い残して元和二年に亡くなったそうです。

江戸時代の増上寺は幕府の庇護もあり、たいそう発展したようです。現在に残る三解脱門(元和8年(1622年)建造・上の写真)をはじめとする大伽藍の隣接地には歴代将軍の霊廟を従え、門前には数多くの別院や僧坊がありました。 以下増上寺ホームページからの転載です。

「全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置 を占めました。 壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。 寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。 」
写真は台徳院(二代将軍秀忠公)霊廟の惣門だったものです。台徳院霊廟の他の遺構で焼け残ったものは、埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されているそうです。


ところが明治維新以後、増上寺は苦難の時期を迎えます。上野戦争(戊辰の役)で甚大な被害を受けた寛永時に比べればまだましだったものの、江戸幕府の庇護がなくなり、廃仏毀釈の波に洗われ、また徳川家の菩提寺であったことから、明治政府からもずいぶんな嫌がらせ(一万人の官軍が一時駐屯したとか、上納金を要求されたりとか、広大な境内を政府用地に召し上げられそうになったりとか..)を受けたようです。 また、明治6年と42年の火事で堂宇を失ったことも大きな痛手でした。その後、芝公園の指定により、境内も半減したようです。

ただ、この時点までは6大将軍の壮麗な霊廟は残されており、戦前は旧国宝に指定されていました。これらの霊廟は日光東照宮に匹敵するものだったということですが、残念ながら米軍の空襲でほとんど破壊されてしまいました。その跡地には東京プリンスホテルなどが建設されています。

明治時代に撮影された有章院(徳川家継)霊廟の写真(出展:平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」より。)がありましたのでアップします。モノクロではありますが、その壮麗さは伝わってくると思います。空襲前には、この規模のものが6箇所+α(夫人の分などもあるので)存在していました。徳川家霊廟群は前述の通り日光東照宮にも匹敵する文化遺産で、今に残されていれば間違いなく世界遺産に指定されていたものと言われています。

さて、ということで、ここから江戸の面影をたどる記事になります。まずは江戸時代の増上寺を見てみましょう。

当時の様子は切り絵図でみるとこんな感じです。松原のあたりが現在の日比谷通りですね。大門から三解脱門に至る間に別院や学寮がたくさんあるのが良くわかります。

次が現代(一寸古いですが)の増上寺周辺の地図になります。残念ながら、境内が極端に減っています。地図にはありませんが本堂の裏手に東京タワーがあり、建設時には増上寺の墓地を提供したそうです。ただ、注意深く見ると、大門と三解脱門の間にお寺の記号がたくさん残っていますね。これらは昔の別院の流れを組むものと思われます。

たぶん幕末の写真だと思いますが、三解脱門のほうから大門を写した写真があります。

 突き当たりの門が大門ですね。通りの両側は増上寺の別院だと思います。同じ場所を最近JJが撮影したのが、下の写真です。
 さすがに150年も経つと周辺の景色は大分変化しますね。写真奥にかろうじて見える大門は昭和12年にコンクリートで再建されたものです。こうやって見ると江戸の面影はなさそうですが、実はビルの合間には**院という寺院が隠れています。
 残っている寺院もほとんど鉄筋コンクリートになってしまいましたが、一軒だけ三解脱門に一番近い寺院が往時の姿を留めています。 二つ前の幕末ごろの写真と比べてみてください。まさに幕末の写真に写っている塀と門であることがお分かりでしょう。こういった築地塀は増上寺の側にも残っています。

ところで、浜松町という町は大門から増上寺側は寺社領で、海側(貿易センタービルあたりから海側)は大名屋敷でしたが、現在の第一京浜(国道15号線)すなわち旧東海道沿いは町民地でした。徳川家康はここに漁師などを連れてきて 住まわしたようです。なんでも二代目の名主が浜松の人だったので、浜松町という町名になったとか。

江戸の町にはお稲荷さんがあちこちにありました。地口に「江戸に多きもの、伊勢や稲荷に犬のくそ」というのがあるくらいです。有力な商人が自邸の庭に設けることもあったようです。以前見たNHKの番組で、そのことが取り上げられていたのを思い出い出しました。お稲荷さんのような祠は勝手に祀ることはできず、総本社の伏見稲荷から分祀を受ける必要があります。江戸時代には分祀が非常に簡単に受けられる制度が発達し、一種の通信販売のような形態で江戸中に広まったようです。
ここは、会社の近くにあるお稲荷さんですが、比較的大規模なものですね。屋敷の中にあったものは建物の立替でも破壊することはできず、ビルの合間にひっそりと残っていたり、あるいはビルの屋上に祀られていたりと、結構生き残っているようです。
この写真は墨田区のほうですが、屋敷がなくなってもお社だけは塀に囲まれて残っていたりします。これも江戸の面影ですね。お稲荷さんについては、またそのうち記事を書くことにして今日はこれまで。

増上寺のホームページはこちら
増上寺のWikipedia記事はこちら

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