2010年1月17日日曜日

町中の米軍基地 - 横浜ノースドック

神奈川県内の在日米軍施設の面積は、約18百万平米(18平方キロメートル)を占め、都道府県別では沖縄県、青森県に続いて第3位、在日米軍施設全面積の6%弱に相当します。(横浜市の広報では20百万平米になっており、集計上の差異(たぶん自衛隊との共用施設の計上方法など)が多少あります。)代表的なところでは、横須賀の海軍基地(米海軍第7艦隊の母港ですね。)、厚木海軍飛行場、相模原総合補給廠、上瀬谷通信施設、池子地区などが挙げられます。

もともと、神奈川県には帝国陸海軍の軍事基地が多数存在しました。それは、横浜という国内一の港湾施設と内陸を結ぶ鉄道網が完備され、帝都東京に隣接し、防衛の要ともなり、京浜工業地帯には多くの軍需産業が、設置されていたからだと思います。戦後になって進駐軍が旧軍の基地を拠点として駐留したので、それが現代につながっているのはもっともなことではあります。

大戦末期に日本の主要都市はB29による空襲でほとんど壊滅状態になりました。横浜市も当然空襲が行われ(横浜大空襲・昭和20年5月29日)甚大な被害を受けましたが、港湾施設の被害は比較的軽微だったようです。米軍は戦後を見据えて横浜港を重要な拠点として利用することを考えていたためと言われています。実際終戦を迎え、連合国軍総司令官であるダグラス・マッカーサーは厚木基地に到着し、最初は横浜のホテルニューグランドに滞在しました。(ちなみにマッカーサーは戦前に新婚旅行の際にも同ホテルに宿泊したことがあるようです。)終戦後横浜は港湾施設や旧軍関係の施設とともに、市の中心部を広範囲にわたり接収され、他の大都市に比較して戦後復興が遅れた要因とされています。占領下の横浜のことは後日記事を書きたいと思います。

市の中心部における接収はほとんど解除され、土地や施設も返還されたのですが、まだ残っているところはあります。これですね。

実はJJの家から目と鼻の先にあるのですが、ここは横浜ノースドックと呼ばれる港湾設備で、在日米軍の陸軍に所属し、キャンプ座間の配下にあり輸送業務などを行っています。横浜市広報による記事はここにあります。この場所は大正時代に埋め立てられた瑞穂埠頭というところで、横浜市神奈川区にあります。


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ノースドックの手前には瑞穂橋という橋がかかっていますが、この先立ち入り禁止という看板が立っています。無視して橋を渡ると、厳重なゲートがあります。






うっつ、これ以上進むと衛兵に狙撃されそうなので、ここで戻りましょう。ゲート脇から内部を覗くと、灰色の艦艇(たぶん汎用上陸用舟艇ですね)が垣間見えますね。その向こうには山下公園方面が遠望できます。



瑞穂橋のたもとには、2件のバーが並んでいます。横文字の看板を見るといかにも進駐軍相手といった風情ですね。

向かって右側のStar Dustに関してはここにレビューが掲載されています。ほとんどは日本人客で、米軍関係者で一杯ということではないようですね。JJは良く知りませんでしたが、割と有名な店のようです。ずいぶん以前に厚木基地内の将校クラブに行ったことがありますが、そこはもう完全にアメリカンで、米ドルの世界でしたね。25¢硬貨(Quarter)を投入して遊ぶスロットマシンなんかも何台か置いてありました。

横浜ノースドックは返還の話も出ているようですね。まあ、傍から見ていても決して使用頻度が高いようにも思えないので、民間施設の共用でも問題なさそうに思うんですがね。軍人は、有事の際には....という理屈かもしれませんが。

ところで、ノースドック近くにはこんなレトロな倉庫が残っています。この辺はだいたい三菱系の牙城ですから、三井のマークを見るのは珍しいですね。このアングルは1月9日にアップした写真(コンクリート造の三井倉庫)の裏から撮ったものになります。昔は手前の貨物線につけた貨車から荷物の積み下ろしをしたんでしょう。


造作を見ると相当古いですね。この辺が埋め立てられた大正時代か昭和一桁位の建築でしょうか?コンクリート造の倉庫の方は、壁に弾痕のような痕があります。たぶん戦争中に機銃掃射されたんじゃないかと思います。倉庫の壁にはこんな看板が取り付けてあります。これもレトロでいいですよね。


ちょっとぶらぶら散歩するにも面白いところですね。最寄り駅はJR東神奈川駅、または、京浜急行の仲木戸駅になります。今日は、横浜駅から直線で1マイルくらいのところに立地する在日米軍基地のリポートでした。

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